3月11日は「いのちの日」その2~この記憶を風化させないために~
3月11日は「いのちの日」~その2~です。(^_^.)
2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では多くの命が失われた。命の尊さを思い、命の大切さを考え、震災で学んだことを風化させることなく災害に備えようと「災害時医療を考える会(Team Esteem)」が制定しました。
災害時医療の改善を図るとともに、9月1日に防災訓練が行われるように、3月11日には健康、医療、災害時の体制などを考える機会を設けたいとの思いからだそうです。
今年もまたこの日が来ましたね・・・・(´・ω・`)
この日は忘れようにも忘れられません。
去年の記事で当時の記憶を風化させまいと
書き記しました。
今回はそういう意味を込めてもう一度同じ内容を
UPしようと思います。
去年うしるきゅんの記事がとても印象的でした。
自分は当時の様子を写真に撮れなかったため
手元には一枚も写真がないのですが、
うしるきゅんのこの写真はとても貴重な写真だと思います。
正直いまだにyoutubeなどの津波の動画を見ると
気分が落ち込んでしまうのですが、
風化させないためにもこのような記事は
残していくべきだと思います。
今日だけはクイズはお休みしますね。<m(__)m>
ではどうぞ。
震災は全く予期せぬ出来事です。(´・ω・`)
当時自分は海岸から離れたところに勤務していましたが、
自宅は海岸に近いところに住んでおりました。
震災当日妻はお休みで自宅に居ましたが、大きな地震の後防災無線で津波が来るので高いところに逃げるように指示があったそうです。
妻はパニックになり外に出ると、
急いで荷物を車に詰め込む人
急いで逃げようと必死に走る人
いきなり非日常的な状態になったそうです。
妻は本能的に海から離れなければ・・・とひたすら周囲のみんなが走る方向に走ったそうです。当時車は1台しかなく自分が通勤で使用してました。
人間必死になると疲れを知らないようで、妻は必至の思いで10キロ以上離れた八戸駅まで移動したそうです。
自分はと言うと、津波が押し寄せたのを携帯のワンセグで見て、必死に妻の携帯で安否確認するもののまったく通じなくて自分も妻の安否が心配でパニックになったのを覚えています。
でも、ほんの一瞬だけ奇跡的に電話が通じたんです。
その時妻は「八戸駅まで歩いてきた」と言い残し電話は切れてしまいました。
とりあえず無事なことに安心し八戸駅に向かいました。
妻は直観的に「物がなくなる」と判断したんでしょう。
八戸駅前のコンビニで食料を買ったのですが、あっという間に、
「もう物は売れません!!!閉店します!!!」
「おい!!なんだ!!ふざけんな!!店開けろ!!!」
怒号が飛び交い無理矢理店を閉める店員・・・・
現場は混乱してました・・・いやおそらく違う場所でも
同じ状況だったでしょう。
自分と妻は無事八戸駅でおち合うことができました。
その後自宅にも帰れず・・・・
仕方なく避難場所の小学校で一夜を過ごしました。
もちろん自宅は津波を被ってますし近寄れません。
薄暗いランプの中繰り返される余震の中ラジオを聴いて過ごしました。
ラジオは地方のラジオ局でしたが、一生懸命希望を持つようにと夜通しラジオで声掛けをしていたのを記憶しています。
自衛隊の方が物資を運んできてっくれたのが朝の4時・・・
毛布とバゴーン焼きそばを持ってきてくれました。
家庭科室でアルコールランプでお湯を沸かし、食べたバゴーンがこんなにもありがたいものかと
感謝して食べました。
実際その後停電が復旧するのに数日かかりました。
通行止めが解除され自宅に行ってみると
自宅周辺は自動車が山積みになり、海のヘドロの匂いで充満してました。
大きな漁船が何台も道路に横たわっている状態・・・
見たこともない光景でした。
まさに北斗の拳の街並み状態です。
もう二度と経験したくないですね~・・・・
このことを風化させてはいけませんね。
亡くなった方々には心からご冥福をお祈りします。
今読み返しても当時の様子がはっきりと思い出されます。
それだけショッキングな出来事だったのでしょう。
最後に長渕剛さんのこの歌は自分の中では3.11の
象徴的な歌です。
この歌聴くといまだに涙が出ます。
長渕さんありがとう。(´;ω;`)
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